読まずに死ねるか?④「待場の憂国会議~日本はこれからどうなるのか」(内田樹編)
先日図書館で、「待場の憂国会議~日本はこれからどうなるのか」(内田樹編、晶文社、写真)を借り、読みました。2014年5月の出版で、当時の安部政権の「特定秘密保護法」成立後の、当時の状況を「民主制の危機」と捉えた論者の様々な小論集です。
私は、高橋源一郎氏のものを読みたくて借りたのですが、その中の中島岳志氏の「空気と忖度のポリティクスー問題は私たちの内側に存在する」という小論に目がとまりました。中島氏は、当時は北海道大学院法学研究科准教授で、現在は東京工業大学の教授です。
内容は、氏の当時の出版中止騒動をめぐっての、出版社担当者の、ある政治家に対する批判部分の削除要請に対するコメントから始まっています。氏は、担当者のこの政治家に対する「忖度」を感じたと記述しています。
そして、氏は森達也氏の「放送禁止歌」(光文社、知恵の森文庫)に記述されている、1960年代から70年代にかけ放送禁止とされたフォークソングについて書かれています。森氏は、その取材の中で、具体的に何か「クレーム」があってそれらフォークソングが、放送禁止になったのではなく、「自主規制」が原因であったことを突きとめます。
ここで氏は、山本七平氏の「空気の研究」(文春文庫)をあげ「以前から私は、この『空気』という言葉が少々気にはなっていた。そして気になり出すと、この言葉は1つの“絶対の権威”の如く至る所に顔を出して、驚くべき力を振るっているのに気付く。」という山本氏の言葉をあげています。
この「空気」が日本社会において、様々な事柄の決定、態度に影響し、具体的に誰かが何かを述べた、具体的な誰かの指示があったのではなく、「空気」によって物事が決まる構造です。
現在、ここ2、3年「同調圧力」という言葉が取り上げられ、例えば現在の日本国民のマスク着用に関する態度が「同調圧力」を可視化したものだという意見があり、私もそう捉えています。「同調圧力」は、「空気」や「忖度」と言い換えても成り立ちます。つまり現在ほとんどの日本国民は、感染防止という理由ではなく、「空気」によってマスクを外せないわけです。マスクに完全な感染防止効果がないことは、すでにコペンハーゲン大学病院や香港大学などのデータで検証されているようです(「マスク社会が危ない」(明和政子著、宝島社新書P126)。
この「空気」を破るのが「水」を差すことですが、果たしてこの「水」はどのような形で誰が、総国民マスク状態に「差す」のでしょうか。それは、やはり政治家や専門家と呼ばれる人びとしかいないと考えます。
ともあれ、2014年という段階で、「空気」と「忖度」に着目し、政治状況を捉えていた氏の見方に感心しました。