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「人災」報告書に対する異国からの鋭い指摘について

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  7月6日、昨年の福島原発事故に対する国会の事故調査委員会が「報告書」を提出しました。この報告書の一番大きなポイントは、地震、津波、メルトダウンにより、約16万人もの人々を避難に追いやり、一部地域を居住不可能にした事態が、「天災」ではなく、「人災」にあるとした点です。この「人災」指摘は、各種新聞、テレビ報道でも大きく取り上げられところです。


  この報告書に関しては、責任逃れをしようとする東京電力の姿勢に対して、「国会もやるもんだ、すてたものではない」と私も含めて多くの国民は思い、損害賠償請求を行おうとする福島の人々も、溜飲を下げる思いであったと考えます。

 しかし、この報告書に対して、「人災」としなながら、結局のところ「責任」を取らない日本文化の象徴だとする、鋭い指摘が先日なされました。これは、悲しいかな日本人からでなく、アメリカ人からなのです。アメリカ、ブルームバーグの社説において、「報告書は福島で起きた災害を『深刻な人災』としながらも、誰がミスを犯したのかを特定していない。そのかわり、『根っから染みついた日本文化』こそが原因だと非難し、実質的に個人が責められないようにした。結論及び提言の中には誰かを告発したり懲罰を加えることは盛り込まれていない。」(7月12日付フジサンケイビジネスアイ・ブルームバーグ)と指摘しています。

 「人災」だと認めたことで、OKとする我々日本人と、それでは生ぬるい、「誰のミスなのか、誰の責任なのかを特定すべきとする」アメリカ人。日本においては「あいまい」ということがむしろ美徳とされ、学校であれ、役所であれ、会社であれ、何か問題が発生した時には、明確に「個人」が責任を取らない風潮があります。一種の「ムラ社会=内向き社会」ですね。

 「あいまい」がプラスの方向に働く場合はともかく、「あいまい」が問題を解決せず、次の「教訓」にならないことの方がむしろ多いと思われます。それは、今回の大惨事である福島原発事故のような甚大な被害が生じた場合でも同じなのですね。ブルームバーグが主張するようにこれを「文化的な災難」で片付けてしまうのは、結局第2,第3の福島をまた引き起こすことにつながりかねないでしょう。

 今回のブルームバーグの指摘から感じるのは、やはり日本人は、何か重大な失敗が発生した場合でも、お互いの傷をなめあうのがせいぜいで、自浄能力のない国民性を持ち続けており、失敗から「教訓」を学ぶことができない国民ではないか、という点です。その意味では、今回の報告書の「人災」指摘といった、マジックワードにごまかされず、今回の事故の処理、責任追及、今後の電力政策を含め、この事故に立ち会った生き証人として、国民一人一人が監視の目を持ち続けることが大事だと考えます。

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