マイブーム「論語」にはまっております⑤~首相交代に思うこと「言行一致」
管首相から野田首相へとまたまた日本の首相が変わりました。たしかに野田首相の代表選挙での「どじょう」演説は訴えるものがあり、ぬきんでておりました。しかし、これまでもマスコミを中心に、新しい首相が誕生した際には評価が高いのですが、それが1ヶ月、3ヶ月、半年、1年経つと当初の期待感はどこ吹く風。また首相が変わるということの繰り返しであったように思います。
やはり政治家は、「口先」ではなく「行い=成果」があってこそ評価される存在なのですね。それは、ビジネス、商売の世界は勿論、私を含め「人」の評価も同じ。「口先」ではなく「行い」が評価の基準なのです。古来「言行一致」「有言実行」と言われてきたのも当然といえば当然です。
「論語物語」(下村湖人著、講談社学術文庫)に、「宰予(さいよ)の昼寝」という小編があります。これは、「論語」の公冶長篇の部分をモチーフにした物語なのですが、孔子の弟子宰予がうかつにも、大事な孔子との集まりを寝過ごし、遅刻をして出席したところ、孔子からきつく叱られるという話です。
孔子はそれまで、弟子の「言」を聴いてそれを信じていたのですが、この宰予が寝過ごし、会合に遅刻したのをみて、もはや「言」を聴いて信ずることができなくなった。「言」を聴いて、「行い」を観なければもうその人を信ずることができなくなった、と嘆いたのです。そして、この宰予については、肝心な会合に寝過ごし、遅刻をする程度の人間なので、「評価」以前の問題、つまり「教え」を施す余地のないボロ土の塀だとまで述べています。つまり堅い塀には上塗りはできる、つまり「教え」を施すことができるが、ボロ土の塀にいくら上塗りをしても、中から崩れてしまい、意味がない。つまり、寝過ごして、遅刻をするような者には、「教え」を施しても意味がないとまで、述べています。非常に厳しいです。
そして下村湖人自身の表現と思われますが、「今はどちらを向いても口先だけで生きようとする人ばかりじゃ。虚心に自分の過失を見つめて、まじめに自分を責める者はほとんどないといっていい。」と、孔子の発言として、記述しています。
私角野も、学生時代の先輩から、「言ったことには責任を伴う」ということを言われ、それはこれまでの自分自身の信条にしてきたように思います。言うだけなら「評論家」、つまり「口先」のみを飯の種にする、一定の人達です。しかし、「政治家」や「起業家」、あるいは「人」そのものも、その「口先」ではなく、「行い=成果」がその「評価」なのだと確信しております。
「宰予(さいよ)昼寝(い)ぬ。子いわく、朽木は 雕(ほ)るべからざるなり。糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからざるなり。予において何ぞ誅(せ)めんやと。子いはく。始め吾の人におけるや、その言を聴きてその行(こう)を信ぜり。今吾の人におけるや、その言を聴きてその行(こう)を観る。予においてこれを改めたりと。」(公冶長篇)